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武田典厩信繁公。

先日、とても貴重な写真をいただいた。
長野県典厩寺に展示されてあった物達に衝撃。
IMG_0175.jpg

武田典厩信繁公の下着。
IMG_0185.jpg


何が凄いってあの有名な川中島の戦いで5回あったとされる4度目の合戦で信繁先生が討死。
その直前まで信繁先生が本陣を置いていたのがこの典厩寺の場所。
というのも典厩寺自体が戦後に建立された戦死者追悼の意味もあっての寺だ。
その時に来ていた鎧の下着がこれだそうな。
刺されている場所があまりにもあれだ。
左胸辺りに2つ、右脇辺りに1つ。
特に左胸の真ん中寄りなんて完全に…討つほうも必死なのが窺える。
滅多刺しにならないのはきっと身に付けている物が高価だからなのだろうか。
400年も前の戦、それもよりによってかなり過少評価されていると思われる信繁先生の…。
ちょっと調べてみたらなるほどNHKの信繁先生討死シーンで同じ所を刺されていた。
参考にしていたのか。
これはとんでもない代物だ。
一説では討ち取ったのが先の信濃の戦いで信玄にやられた村上良清だというのも因果なのか後世の創作物語なのかは謎。
村上義清というのは甲斐の隣、今の長野県当時の信濃の豪族だった。
信濃に侵略してきた武田家を相当苦しめるも結局滅ぼされていて上杉家の客分になっていた武将。
そもそも上杉軍と武田軍の小競り合いなんて数え切れないくらい行われていて、川中島で5度対陣したという歴史的に証明出来る文献も無いのが実際の所なんだけれども。


ちょっと書こう。
頑張って書こう、絶対長くなるぞ。
多分ね、俺はわりと歴史オタクなんだろうね。
日本史の中で特に知っているカバー範囲と言えるのが太平記、奥州藤原~鎌倉時代の源平、室町~安土桃山時代~江戸幕府3代目家光将軍くらいまで、幕末から明治維新、日中日露~太平洋戦争まで。
まぁ有名な所は大体って所だろうか。
それで実際に史跡なんかも行く。
今だってそう、遠征の隙を見てはね…昨日も本当は都留にあった勝山城跡に寄りたかった、戦国期の武田氏滅亡の最後の決め手になった小山田氏が有していた山城。
結局川遊びしていてあれだったんだけれども。
そしてその中で一番現代で勘違いされている時代が安土桃山時代、絶対そうだ。
さらにその中で最も違う形で伝えられていると思えるのが武田家。
あれ程誤った解釈でいかにエンタメだろうが実像と掛け離れている例は他に知らない。
中学くらいの頃に武田家って派手な話多いけど実際どうなんだろうってとこから入った。
実像は全然違ったぞ。


まず武田騎馬軍なんてありえないからね。
一般に言われている長篠の戦いの有力な諸説もほとんど創作。
そもそも鉄砲三段構えを始めたのは織田信長じゃない。
石山本願寺攻めの時、本願寺勢に加担していた鈴木重秀だ。
弾も信長に当てている。
この人は雑賀衆の頭領としての通り名である雑賀孫市のほうが有名だ。
武田軍が馬術に優れていたとしても合戦になると降りて徒歩武者になっていた。
だって馬高いんだもん、それにサイズもポニー。
とてもじゃないけれど人間同士の間に割って入れるものではなかった。

有名な山本勘助なんていう存在は絶対に創作。
築城術に長けていた足軽大将というのが最も有力、それであれば文献に記載されている。
というのもこれまたどの文献にもそういう軍師の存在など記されていないんだから。

後、最強の軍団というのも微妙な所。
確かに相当強かったんだろうけれどそれよりも武田信玄という人は勝つというよりも負けなければいいという戦を繰り返していた。
それでも結構負けている。
もっと負けていない人がいる。
上野、今で言う大体群馬県西部辺りにいた長野業正に6度も敗れている。
実はこの人がこの時代最強の戦人なんじゃないかと密かに思っているんだけれども。

それに甲斐という国はとにかく兵糧に悩まされていた。
水田があまり作れないし雪も降るから二毛作も出来なかった。
という事はまず戦争出来る回数が限られている。
そして兵糧というか普通にご飯が少ないわけだから戦争には必死の出稼ぎの意味合いもあった。
農閑期によそで必死に略奪してきて農繁期は畑で頑張る。
敵を弱らせ味方が潤う一石二鳥。
雪国の軍が強いのはそういうのもある、必死さが違う。
兵農分離という制度が確立するまでは特に顕著。
それに信玄の実話を普通に解釈したら一般に思われているイメージからして賢いっ!というよりも意外と汚なっ!って手段のオンパレード。
とんでもない狡猾さ。
多分後で書くけれども…比較しにくいけれど客観的に見ての侵略速度で上杉軍より右に出る軍なんていなかった。
織田信長も本願寺焼いて虐殺してって有名だけれども信玄だって同じような事をしている。
降伏も許さないってんで討ち取った兵士3000人の首を敵に見せつけたりさ、やる時は半端ない。
それだったら常にヨーロッパスタイルで戦っていた上杉軍が最強だろう。
毘沙門天でしょ、自分達の大将は神様だと思った部下達。
そして実際に突撃してるのに無傷の謙信、本当かよ。
これに習って後々織田信長も第六天魔王になったんだぞ、神と悪魔。
ヨーロッパスタイルというのは大将クラスの人間が先陣切って乱戦に突っ込んでいくというようなあんな感じ。
だからヨーロッパの大将の死傷率は日本のそれとは比べ物にならない。
日本の大将クラスは後方の陣でドンと構えているのが普通。

武田家といえば実際の所はず抜けた政治力の強さ。
そもそも戦国大名という概念、あれがおかしいね。
戦国大名=一国の主ではない。
当事、要するに国会議事堂みたいな機関であったはずの幕府の権威はほとんど無くなっていた。
○○守護や例えば○○之守みたいに任命されようが下克上されれば終わり。
例えば東京都にしたって東京都知事みたいになれたとしてもさ、江東区品川区大田区とかでは独立勢力がいるかもしれない。
物資獲得に必要な海路が絶たれている、まずい。
それがジリジリと勢力を拡げてきたら…その前に侵略してしまえみたいなのばかり。
そういうのを信玄は完膚なきまでに従わせるのではなく基本的にギブ&テイクでまずは甲斐を平らげていった。
だってそれぞれの勢力がかなりの力を持っていたんだからそういう土着の豪族や名士に一斉蜂起で反旗を翻されればシャレではすまない。
それに攻め入られた時に大小構わず前からも後ろからもやられる、それは大変という事でまずは地盤固め。
ゲームなんかで家臣としてエントリーされている武将もほとんどはそう、家臣というより少しパートナーに近かったのかもしれない。
信玄の経営手法は今でいうボトムアップ方式、信長なんかはトップダウン方式だ。
大袈裟に言えば武田軍はより多国籍軍のような感じ、一企業ではなかった。
だから主従というよりも結束のような関係性。
その点でも有名な西国大名より軍は相当に強かったはずだ。
個人及び集団に対する重要性の与え方が違う。
褒美もたんまり、そのスタンスだと土地を増やし続けなければというのもあったはずだ。
そして戦争しているより大人の話し合いしている時間のほうがはるかに長い。
甲州金って有名でしょ。
当初は金山衆という採掘の達人集団が金山を全部占有していた、武田家は金山0スタート。
傍目には侵略すればいいのにと思えても金山衆によって採掘された金からの4割を納めさせるという契約に近いような関係を取った。
信玄堤だってそう、収穫を安定させなければいけない。
でも雪解水が大量になる春先は特に大暴れする河川、素晴らしい領国統治。
多少の主観も入っているけれど大幅には間違っていない。
ここまで書いたのが当事の武田家の背景に近い。


さぁ戻ってきたぞ、ここから信繁先生だ。
ここまでは知っていたんだけれども各種写真を見せてもらって少し調べた。
日記に書く前に電話もしたんだぜ、うひひ。
若くして譜代家臣に支えられ父君の信虎をすったもんだの末に駿河今川家に追放して家督を相続した時、甲斐の中でも弱卒とまでいかなくても甲斐の有力勢力の1つに過ぎなかった。
それどころか信虎から見れば長男信玄ではなく次男信繁が優秀だった為にかわいがり信繁に家督を継がせようとしていた。
書けばキリがなくてこの信虎という父君も倫理的に相当問題があったとされている。
とにかく信玄が家督を継いで弟の信繁先生が補佐に回って武田家の黄金時代が成されて行く。
どの文献にも不思議と信繁先生の事はしっかり記されていてそのどれもが賛辞ばかり。
相当に文武両面で優れていたらしい。
上に書いた各方面との話し合いやら振る舞い方、それに将兵のまとめなど陰で相当やっていた事だろう。
戦国時代、家督相続で親兄弟間の問題がありその後上手くやっていけたパターンを他に知らない。
有名なのだけでも織田信長と信行、伊達政宗と弟小次郎、御館の乱の景勝と景虎、斉藤道三と義龍、全部どちらかが死んで決着している。
たくさんある。
そんな時代、誰にも問題はあっただろう。
私怨さえ許されたかもしれない時代。
その土地に住む人間がルール。
裏切りなんて普通で義理も人情もへったくれもない。
後継問題で家臣団も意見が割れたろうに信繁先生は慕われやすい人格者だったんだろう。

そんな時代にひたすら弟が兄の補佐に回り、一時百万石にまで達した武田家。
真田幸村、有名でしょ。
あの人の本名は何だ?
真田信繁。
父の真田昌幸が信繁先生の文武にあやかって名付けた。
幸村というのは恐らくだけれども後世につけられた名前。
当事の文献に幸村という記述はない。
昌幸というのも相当な人物、未だに長野上田地方には伝説だらけ。
関が原での秀忠遅参もこの人のせいとされている。
基本的に徳川軍の通り道にあった篭城戦なのに最新装備の38000人VS3500人で敗けないどころか退けさせたという嘘のような本当のような話。
元は土着の豪族でありながら現代では戦国大大名と同様の扱いを受けている物凄い一家の最盛期を支えた人。
信繁先生、そんな人にあやかられるなんてそこまで凄かったんですか。
後は信繁先生が子の信豊に武田信繁家訓という99カ条の軍規、軍略、人心掌握、治安などの書を残している。
これが江戸時代には武家の教科書のように広く読まれていたとの事。
だから信繁先生かなり有名だったらしい。
これも相当凄い話だと思う。
それがエンタメの発展に伴って武田家がよりわかりやすく面白く演じられたり伝えられたりしながら忘れられていったんだろう。
想像とはいえ信じたくもなる。
もしかしたら本当に信玄より優れていたのかもしれないと。
事実、信繁先生が亡くなってその後に信玄も亡くなって急速に武田家は瓦解していく。
もし生きていればと思ってしまう。
なんせ武田家の最後はほとんどの家臣が戦う事なく裏切られてだったから。

そして。
川中島の戦い。
全5次のうち第4次だけが激しい戦いだったとされている。
基本的に信玄は謙信とは戦いたくなかった。
しかもこの時代の越後は経済、軍事共に織田家より強かった。
そこに上乗せして戦の天才の謙信。
戦だけじゃなくて領国経営も凄かったのに戦争ばかり言われている。
謙信なんて武田家と戦いたいとかじゃなくて北信濃の豪族が助けを求めてきたから出兵していただけの話。
どちらにせよ上杉軍が本当の本当に強かったからだろう、そりゃ嫌だ。
勝てなくとも負けなければいいというスタンスの信玄にとって無理して正面から戦う相手ではなかった。
出来れば越後も欲しいけれどでもまずは信濃が欲しい、場所柄上京の糸口にもなる。
とはいえ信濃北側には越後の上杉、どうすればいいものか。
本体同士が駆けつけた一触即発の第3次まではほとんど川を挟んで両軍睨めっこ。
そして兵糧切れや雪などで上杉軍が去るとその隙に着々と信濃の支配地域を増やしていっていた信玄。
上杉軍がやって来ればまた睨めっこ。
飛び込んでくれたらラッキーってなもんだ。
いなくなればまた信濃侵略の続き。
これ相当汚いけれどかなり賢い方法、おかげで随分学ばせてもらった。

でもとうとう戦わないといけなくなった、それも正面切ってやるしかない状況が訪れた。
何故かというとこの頃上杉謙信は室町幕府に呼ばれて上京、なんと関東管領という超重要な役職に就いてしまった。
これは大昔からあった役職でかなり上位の役職、関東を取り仕切る警察のような感じだろうか。
上杉謙信は元より大義名分が無いと侵略はしない人。
何度戦で勝ってもその土地を占有しなかったくらい。
それが大義名分が出来てしまった。
しかも戦えば滅法強い、うぉ~ってなもんだ。
日本の中枢機関より関東を統べろという文句無しの金看板。
関係ないかもしれないけれどそれに対して信玄は民の生活を守る為に侵略するという大義名分だった。
まずは南に治安回復の為に侵略を開始した上杉軍。
日本地図で見ればわかりやすいけれど新潟から下ってあっという間に群馬、埼玉、東京、千葉東寄り、そして神奈川にある北条氏の小田原城まで制圧直前になった。
これは最悪の事態。
そんなに強い上杉軍が信濃だけではなく甲斐の北からも東からも南からも攻められる可能性があるという事。
これまでは北だけだったのにこのままでは武田家滅亡間近。
でも信玄にとっても義元が亡くなった南駿河の今川家、そして相模北条家も上杉軍にやられてチャンスだった。
ここで上杉軍さえ倒せば一挙に東最大の大名にという具合に。
そう、元々武田軍も戦には滅法強いんだから。
川中島に出陣。
グーグルアース推奨だ。
典厩寺も信玄本陣も山々も全部記されている。

まずは川中島の海津城に本陣を張った信玄。
この海津城を築城したのが山本勘助だそうな、本当かどうかはわからないけれど甲陽軍艦にそう書かれている、これも後で書こう。
で、ここで有名なきつつき戦法が発動される。
今は八幡原史跡公園になっている場所に本陣を移動。
信玄と謙信一騎打ちの像がある公園ね。
きつつき戦法もそうだけれど一騎打ちもそれ自体がフィクションだろう。
ただ何かしら妻女山に陣取った謙信の裏を取ろうとして失敗したのかもしれない。
そうでなければの重臣中の重臣である信繁先生が先頭で討死なんてね。
本来ならその前に誰かが陣取っていたはずだ。
一騎打ちに関しても上杉方の文献に書かれている。
記載されているのは信玄に斬りかかったのは上杉方の一兵卒だったというのみ。
きつつき戦法に関しては山本勘助が軍師などではないからそもそもがおかしい。
これは完全に何の根拠もなく勝手に思ってるんだけれどもそれだったら別働隊に参加していた攻め弾正の異名で有名な真田幸隆辺りじゃないかと勘繰っていたり。
真田家自体もそうだけれどこの幸隆なんて謀将中の謀将だ。
IMG_0167.jpg
↑これもよく出来ているけれどフィクションだろう、何箇所か破綻している。
とにかく信繁先生は今は典厩寺になっている場所に本陣を張り、ここから出撃していった。
そして戦力が半分になった信玄本陣を守る主力部隊と上杉軍の裏をつく高坂弾正昌信率いる別働隊に別れた。
逸話によると妻女山から海津城武田陣営を見下ろしていて炊飯から出る煙の量からして武田が何かやってくると察知した上杉軍は妻女山を降りて武田本隊の真ん前に。
武田軍の鶴翼の陣の最も厳しい所に布陣していた信繁先生は信玄を守るべく別働隊の到着まで持ち堪えるべくその場で踏み止まり討死したそうな。
前半戦は上杉軍の勝ち、後半戦は別働隊が来たおかげで武田軍の勝ち、そして北信濃を手に入れたのも武田軍。
この時代の戦って弓がほとんど中心で次に槍。
刀で斬り合うなんて最後の最後だったらしい。
そりゃそうだ、少しでも遠くから突ける槍があるのであれば長いほうがいいじゃないか。
刀はすぐ斬れなくなるらしい。
面白い話があって剣豪で有名な宮本武蔵は関が原合戦に参加したのはいいけれどすぐ刀斬れなくなってずっと逃げ回っていたそうだ。
だから乱戦の斬り合いにまでなって大将クラスで死傷者多数の川中島は余程の激戦だったんだろう。

これも凄い↓
IMG_0187.jpg
信繁先生の兜と下着だけ残っていて鎧が無くなっているというこの状況、どう考えたらいいんだろうか。
まず手柄になる首級は真っ先に取られた。
上杉方の文献で信繁先生討死と聞いた上杉謙信は惜しんで一時喪に服したそうな。
兜だけはもしかしたら死を覚悟して自分で本陣のあった場所に送ったのかもしれない。
そして鎧はお金やらにもなるだろうから敵勢に剥ぎ取られたのかもしれない。
ただ、他にもあるのかもしれないけれどこの時代の戦死者で身に付けていたものが現存しているという例を他に知らない。
だから最初の下着と合わせても衝撃だ。

この後の話が凄い。
取られてしまった信繁先生の首級。
別働隊が合流してきて一気に盛り返した武田軍はとにかく首級を取り返しに行く。
輪をかけて恐ろしい時代だ。
その頃には上杉軍は崩れて撤退の体制になっていたそうな。
それで本当に首級を取り返した、とんでもない執念。
でもね、首級の状態は酷く…そりゃ当然だ。
切り口もめちゃくちゃで血まみれだろうし何度もぶつけたり落としたりしてグシャグシャだろうしどれが信繁先生の首級かパッと見ではわからなかったらしい。
上杉軍は当然ながらたくさんの首級を取っていて片っ端から奪還したんだろう。

そしてどうしたか。
なんと武田軍の首の無い遺体を全て1箇所に集めた。
そして奪還してきた首級と体を繋ぎ合せて継ぎ目が合致すればこれが誰の首、これが誰だと判別したそうな。
恐ろしい。
その1箇所に集めた場所は胴合橋といって今もある。
なんて名前の橋だ。
IMG_0177.jpg
典厩寺にある首清め井戸。
要するにグシャグシャの首をここで洗ったんだろう。
これだけ1ヶ所に揃っているとさすがにここに下着や兜、それに刀があるのも頷ける。
IMG_0186.jpg

遠い昔のおとぎ話のように読んだり考えたりしていた物がこの写真を見て一挙に身近になってしまった。
ビビる。
本当にこの日本のこの場所でそんな事が…って。
と同時にこれだけ残されているっていう事は信繁先生はやっぱり相当な人物だったんだろう。
う~む。

もう1つ問題の写真がある。
IMG_0184.jpg
武田家を後世に伝える物として最も信頼性があると言われている甲陽軍艦。
そもそもこの甲陽軍艦は武田二十四将にも当然入っていてその中でもさらに筆頭とされる武田四天王の高坂弾正昌信が晩年に口頭から伝えそれを書き記した物が原本となり江戸時代に完成された書。
そのオリジナルが典厩寺のこれだって。
これが…?
どのオリジナルだ…。
原本となった物なのかそれとも江戸時代に完成された物なのか。。
探している。
現在普通の書籍として売られている物の中でなるべく個人の注訳が入っていないもの。
カットされていたり編集されていたりする物ばかりなんだ。
さすがに昔の文字は読めないしさ、困った。


なんとかしていつか典厩寺に行っていろいろ見たい。
あまりにも簡単に昔を知れる場所がそんな所にあったとは。
かなりの衝撃だったから書いてみた。
もはや伝説染みていたよりによって信繁先生のそんな物が…ってね。
もっと書きたいけれど本当にキリがないのでこの辺りで終わりにしよう。
あぁ、知りたい病がまたもや発動してしまった。
長野行きたい長野行きたい。
興味ある人は調べてみてね、きっと400年と少し前がすぐそこに現れるぞ。
先人の後先、知っていて損はな~い。
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